吉川尚輝の亜細亜大学野球部退団は、衝撃的な青春ドラマのようでした。
18歳の吉川は高校卒業後、亜細亜大学への入学が決まっていましたが、春季沖縄キャンプで衝撃的な現実に直面します。日本一厳しいと言われる亜細亜大学野球部の練習に耐えられず、わずか1か月で「自分には合わない」と判断。
読売ジャイアンツの正二塁手として活躍する吉川尚輝選手。華麗な守備と俊足、そして勝負強い打撃でファンを魅了しています。実は彼には、大学進学時に一度は亜細亜大学野球部に入部しながらも、退部を決断したという知られざる過去があります。
いったい何が起こり、なぜ退部という大きな決断に至ったのでしょうか。本記事では、その経緯や背景を振り返りながら、吉川選手が歩んできた道のりを追っていきます。
吉川選手は岐阜県羽島市出身。中京高校時代から卓越した野球センスで注目を集め、高校通算131安打や50m走5秒7という俊足を記録しました。当初は亜細亜大学に進学する予定でしたが、最終的に中京学院大学へ進学します。
その後は1年春からリーグ戦に出場し、秋にはベストナインを受賞するなど大学球界を代表する内野手へと成長を遂げました。
4年春には第65回全日本大学野球選手権大会で優勝し、中京学院大学初のドラフト1位指名で読売ジャイアンツに入団します。
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 吉川 尚輝 (よしかわ なおき) |
生年月日 | 1995年2月8日 (29歳) |
出身地 | 岐阜県羽島市 |
身長/体重 | 177cm / 78kg |
投球/打席 | 右投げ左打ち |
ポジション | 二塁手、遊撃手 |
プロ入り | 2016年 ドラフト1位 |
経歴 | 中京学院大学 -> 読売ジャイアンツ (2017年~) |
背番号 | 2 |
吉川尚輝は亜細亜大学の野球部に入部してなんとすぐに退団!
亜細亜大学野球部の当時の状況
吉川選手が卒業直前に参加した2013年当時の亜細亜大学野球部は、生田勉監督のもと、東都大学野球リーグで強豪として名を馳せていました。
前年の2013年春季リーグでは、長曽我部竜也選手が首位打者、九里亜蓮投手が最高殊勲選手を獲得し、明治神宮野球大会にも出場。嶺井博希選手や山崎康晃投手など、のちにプロで活躍する選手たちも多数在籍し、大いに盛り上がりを見せていました。
そんな強豪校・亜細亜大は、特に「日本一練習が厳しい」と言われる環境でも有名です。
上下関係やプレッシャーも大きく、実力はもちろん、強靭な精神力が求められるチームとして知られています。
吉川尚輝の亜細亜大学はきつい退部
亜大に進学が決まり、高校3年の2月には沖縄キャンプに参加します。
だが、厳しい練習に戸惑いを隠せず、母・陽子さんに電話しました。 「飛行機のチケットを予約した。お金がないから、振り込んで」。
上京した両親に連れられ、岐阜に帰省。 心は白球から離れた。憔悴(しょうすい)していた末っ子の尚輝に両親の言葉が優しく響いた。
「尚輝は野球をやっているときが一番生き生きしている。輝ける場所があるのは、いいことだよ」
高校卒業時に入部するもすぐ亜細亜大学を退部して、その後中京学院大学へ進学します。
亜細亜大学の練習は相当厳しいそうです。
巨人に入団後、吉川選手も亜細亜大学の練習の厳しさについていけなかったと話しています。
吉川尚輝選手が亜細亜大学野球部を退部した背景には、強豪校ゆえの厳しい練習や人間関係など、さまざまな要因が絡んでいたと考えられます。結果を求められる環境でこそ力を発揮する選手もいれば、その環境に適応しきれない選手もいるのが事実。
吉川選手の場合、中京学院大学へと進学し、見事に才能を開花させ、プロで活躍するまでに至りました。
「退部」という選択は、当時の吉川選手にとって大きな挫折であり、野球人生の岐路でもありました。
しかし、その経験があったからこそ、厳しいプロの世界で活躍する強いメンタルを身につけられたのではないでしょうか。成功の裏には必ずと言っていいほど挫折が存在しますが、そこから這い上がることで新たな可能性が開かれることを、彼の歩みが教えてくれます。
吉川尚輝選手が亜細亜大学野球部を退部した理由
吉川選手は高校卒業直前の2月に亜細亜大学の春季沖縄キャンプに参加しました。
しかし、当時の亜細亜大学野球部の練習環境や上下関係、人間関係などに馴染めず、心身ともに追い込まれてしまったようです。
彼の座右の銘は「結果が全て」。それだけに、厳しい環境下で結果を出せる自信が持てなかったのか、あるいは練習方法や指導方針が合わなかったのかもしれません。
最終的には「野球をやめよう」とまで思い詰め、半ば逃げるように亜細亜大学への入学を辞退しました。
その決断は自らの野球人生の大きな岐路となりましたが、同時に、後に続く活躍への重要なターニングポイントになったとも言えます。
元阪神の赤星は亜細亜大学の練習は戻りたくないと話す
元阪神の赤星は下記のように語っています。相当、練習が厳しいんでしょうね。
「何億積まれても大学時代には戻りたくない」
「あそこに入って初日から最後の日まで良かったと思った事は一度もない」
「あんな所だと最初からわかっていたら絶対入学しなかった」
「野球部のグラウンドの最寄り駅を降りると悲鳴が聞こえる」
亜細亜大学の練習とは?
亜細亜大学の野球部は、日本で最も厳しい練習環境の一つとして知られています。練習は非常にハードで、選手たちは早朝から活動を開始し、体力や技術を徹底的に鍛えられます。
具体的には、選手たちは毎朝5時に起床し、準備運動なしで5kmのランニングを行います。その後、1500mのダッシュを10本こなすなど、体力を重視したトレーニングが続きます。
また、亜細亜大学の練習では、守備練習が特に重視されており、シートノックの際には選手全員が声を出し続け、連携を強化します。このような練習は、選手たちの集中力やチームワークを高めるために重要です3。
さらに、練習メニューには、肩車や手押し車などの体力トレーニングが含まれ、選手たちは約2時間をかけて12種目をこなします。これにより、選手たちは高いレベルのパフォーマンスを維持するための基礎体力を養います。
亜細亜大学の野球部は、厳しい練習を通じて選手たちの精神力や体力を鍛え、プロ野球選手としての素質を引き出すことを目指しています。これにより、多くの選手がプロ入りを果たしており、その実績は非常に高く評価されています.
中京学院大学での活躍
亜細亜大学への進学を断念し、地元の恩師や両親に励まされた吉川選手は、中京学院大学で再スタートを切ることを決意。入学当初は体重が67kgしかなく、体格の課題を痛感した彼は、白米を4合食べる自炊生活や、仲間と共にジムに通う日々をスタートしました。学業と並行してスーパーやカー用品店でのアルバイトを掛け持ちしながら、地道な努力を続けます。
その結果、1年秋には打率4割2分6厘を記録、2年春には打率4割3分9厘で首位打者に輝くなど、一気に才能が開花。大学日本代表候補に選出されるなど、瞬く間に大学球界を代表する選手へと成長しました。4年春には全日本大学野球選手権大会優勝を達成し、主将としてチームを牽引。ついにドラフト1位指名を受け、プロ野球への道を切り開きます。
まとめ:吉川尚輝は亜細亜大学の野球部に入部してなぜすぐに退団を調査
逃げるは恥だが役に立つではないですが、吉川は結果として巨人のドラフト一位に指名されるほど、注目を浴びたのです。今の世の中、精神論で活躍するとは限らないのですね。
吉川尚輝選手の亜細亜大学野球部退部は、一見するとネガティブなエピソードに思えるかもしれません。
しかし、結果的にその挫折を乗り越えた先に、中京学院大学での大活躍やプロ入りが待っていました。
強豪校ならではの練習や人間関係は、彼にとっては馴染めない部分が大きかったのかもしれません。とはいえ、その経験がなければ、現在の吉川選手の姿はなかったでしょう。
夢を追いかける過程で、誰もが一度は壁にぶつかります。大切なのは、その壁をどう乗り越えるか。吉川選手は自分に合う環境を見つけ、その中で最大限の努力を重ね、プロの舞台へ羽ばたきました。
厳しい道を選ぶのも勇気がいりますが、自分の可能性を広げるために環境を変える決断もまた、大きな勇気が必要です。吉川選手の物語は、挫折から学び、再び立ち上がることの大切さをあらためて教えてくれます。
今後も、読売ジャイアンツの内野を支える重要なピースとして、そして日本球界を牽引する選手として、吉川尚輝選手のさらなる飛躍に期待しましょう。
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