原辰徳は、1970年代の高校野球界で大きな注目を集めた選手の一人でした。
東海大相模に進学し、1年生から主力として活躍しました
1974年夏の甲子園大会での活躍です。準々決勝で鹿児島実業と対戦し、延長15回の激闘を繰り広げました。この試合で原は、ライバルとして名高い定岡正二と投手戦を展開しましたが、惜しくも敗れました。
1975年の春の選抜大会では、チームを決勝まで導く活躍を見せました。原の高校時代の成績は詳細不明ですが、打撃と守備の両面で優れた能力を発揮し、プロ野球界からも高い評価を受けていました。
項目 | 内容 |
---|---|
氏名 | 原 辰徳 (はら たつのり) |
生年月日 | 1958年7月22日 (66歳) |
出身地 | 福岡県大牟田市生まれ、神奈川県相模原市南区出身 |
身長/体重 | 181 cm / 84 kg |
ポジション | 三塁手、一塁手、二塁手、外野手 |
投打 | 右投右打 |
プロ入り | 1980年 ドラフト1位 |
初出場 | 1981年4月4日 |
最終出場 | 1995年10月8日 (引退試合) |
所属球団 | 読売ジャイアンツ (1981-1995) |
監督経験 | 読売ジャイアンツ (2002-2003, 2006-2015, 2019-2023) |
現職 | 読売ジャイアンツ オーナー付特別顧問 |
【原辰徳の高校時代】人気?成績を調査
高校1年から活躍
現役時代はドラフト1位で入団し主砲として活躍した人気選手でした。
東海大相模高校に入学し、1年生から三塁手のレギュラーとして活躍しました。
夏の甲子園に3年連続で出場し、1975年の春の甲子園にも出場している。この大会では決勝戦まで勝ち進み、延長の末に高知高校に敗れたものの、準優勝という成績を収めています。
高校時代の成績
高校通算本塁打は43本でした。東海大相模の成績も下記です。
年度 | 試合数 | 東海大相模の勝利数 |
---|---|---|
1974 | 23 | 19 |
1975 | 21 | 13 |
1976 | 13 | 11 |
その他にも伝説があります。
高校時代から人気があった原辰徳
甲子園でもフィーバーとなりました。
3年連続甲子園出場
東海大相模での父のいる高校で野球をしたいと話すと二つの条件を出さそうです。
一つは、他の部員と実力が五分五分なら補欠、七三なら(レギュラーに)考えるということ。
もう一つは、昔は多少の愛のムチがあって、「人が1回でもお前は3回。それでも周りは厳しい目で見る。それが耐えられるか」ということでした。「耐えられます」と答えました。
原辰徳は、とにかく迫力があり、いくら我が子への”愛のムチ”だとはいえ、ボコボコにしていたそうです。
3年夏の甲子園を終わった原貢氏は、「ご苦労さん、よくがんばった。お前に厳しくすることが、チームの和を保たせるために必要だった。ただ、俺もきつかったぞ」
との言葉があったそうです。
原辰徳の甲子園への驚きの発言
「甲子園には幼いころからずっと憧れていました。すごいところなんだ、と。そう思い続けたせいでしょうか、実際に甲子園で練習したときに『小さな球場だな。これならなんとかなる。自分でもホームランが打てる』と思いました」
原辰徳の高校時代の監督の原貢氏と「親子鷹」としても話題になる
原辰徳の高校時代の監督は、彼の父である原貢でした。原貢は厳しくも愛情深い指導で知られ、原辰徳を含む多くの選手を育成しました
1964年(昭和39年)創部されました。首都大学野球連盟発足時からの加盟校であり、首都大学野球リーグで優勝争いの常連でありなんと69回(2016年春季終了時)の優勝を誇ります。
特に有名なのが原貢氏と原辰徳氏の「親子鷹」です。
1977年(昭和52年)、辰徳の進学と共に東海大学硬式野球部監督に就任。首都大学リーグ7連覇を達成。東海大学系列校野球部総監督です。その門下生や学校関係者は原貢氏のことを「監督さん」、原氏のことを「辰徳さん」と呼び分けて、気を遣っているのです。
【原辰徳の高校時代】ライバルの定岡正二との試合!人気がすごい
1974年は定岡の2年夏に続き、2度目の甲子園であったが、定岡の存在は全国的に、ほぼ無名でした。
ただ、東海大相模との試合で人生は変わったらしい。1年生「五番・サード」の原辰徳
しあ展開は、定岡は原に2点タイムリーを打たれ、先制を許すも、続く2回表には、定岡自身の二塁打(2打点)もあって3点を奪い、逆転します。
しかし9回裏、定岡はまたもや原辰のヒットから1点を失い、同点とされ、延長戦に突入します。
14回までつづき、互いに1点ずつを奪い、4対4。そして15回表、鹿児島実が再び1点を奪い、リード。
その裏、定岡は振り絞り、先頭打者を三振、続く、ここまで3安打、13回には敬遠もした原辰を二ゴロ、最後は山口宏を三振に打ち取り、ゲームセット。213球の熱投でした。
テレビ視聴率は、34パーセントであり、第4試合ということで最後はナイタであり、NHKのテレビ中継がなくなったが、この試合の中継打ち切り後、抗議が殺到。翌年から延長でも中継が行われるようになりました。
その他、原辰徳のライバルとしては、杉村繁が挙げられます。彼らは「西の杉村、東の原」と称され、1975年の春のセンバツ決勝で対戦しました。この試合は延長13回の接戦となり、杉村の高知高校が勝利しました
引用元:高知対東海大相模の“横綱対決ライバル杉村繁と原辰徳が輝いた75年春(JCOM)
まとめ:【原辰徳の高校時代】人気?成績は?甲子園!定岡正二
いかがでしょうか。
【原辰徳の高校時代】人気?成績は?甲子園!定岡正二についておつたえしました。
甲子園のスーパースターから、巨人の4番バッター、巨人の監督と常に王道を走ってきた原辰徳、現在はしばしの休憩中ですが将来にむけてまた何をやってくれそうですね。
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